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2019年1月14日
レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い─人類が生命を超越するとき』と、新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』。
2045年に人類文明は「技術的特異点(シンギュラリティ)」に達し、私たちの生活や価値観が後戻りできない形で変化してしまうという。文明は指数関数的に進化するので、今後の変化のスピードははこれまでに比べられないほど速いものになるらしい。
たしかに、初代iPhoneが発売されたのが、2007年。今からたった12年前。スマホによって私たちの生活はずいぶん変わった。スマホなしの生活はもはや考えられない。しかし、そのスマホが現れたのは、たった10数年前に過ぎないのだ。
それを考えると、カーツワイルの提唱する「シンギュラリティ」も起こりうるのではないかと思えてくる。
一方、東ロボくんを開発して話題になった新井は、シンギュラリティは来ない、と明確に言い切っている。AIは、人間がさまざまな情報をインプットし、それを基に問に答えたり、作曲をすることもできるが、「意味」を理解しない以上、限界がある、ということのようなのだ。
しかし、「シンギュラリティは来ない」と言う新井にして、「今後10年から20年の間に、働く人々の半数が職を奪われるかもしれない」と警告しているのだ。そして、「それは人類がこれまで体験したことのない変化」であると。
つまり、マックスの変化がシンギュラリティで、ミニマムの変化が、仕事の半分がなくなる、ということ?
このへんの議論は未来のことゆえ、やや混とんとしていて掴みどころがないのだが、「シンギュラリティが来る!」と警告されるよりも、「シンギュラリティは来ないけど、すごい変化は来る!」と言われた方がなんかドキッとしてしまった。
いずれにせよ、これから10年、20年という単位で、非常に大きな変化が起き、私たちはそれに対処していかなくてはいけないということだ。
私らの年代はともかく、これから仕事を始める人や大学で何を学ぶか決める学生なんかは、来る未来の変化を見据えつつ、進路を決めていかなくてはいけないという、非常に難しい時代になっているようだ。
時代に流されていると、きっと溺れてしまう。時代の波に乗りながらも、しっかりと情報収集して、自分で考えて、自分の生きたい方角を見失わずに、生きていく力が必要になる。
2015年3月5日
知識量を問う暗記中心の試験から、論述中心の考える試験へ。
グローバル時代に対応できる力を測定できる試験へ。
英語も、「読む・聞く」偏重の試験から「書く・話す」も重視する試験へ。
受け身の学習から能動的学習へ。
試験の具体的中身はまだ決まっていないものの、新・中一生が大学入試を受けるときから新しい選抜方式が採用されることは決まったようだ。
基礎学力の担保として、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」が導入されるらしい。これは、高校2年・3年の各段階の学力を測るもの。
どのような選抜方法になるのかについては、今後も報道をしっかりウォッチしてこのサイトで報告していきたいと思います。
不安になることはありません。選抜方式が変わっても、選抜される人数が変わるわけではないですよね。新しい制度で選抜される人は必ずいるのです。今から準備して、“考えることのできる力””英語を使える力”をいっしょに養いませんか?
2015年1月20日
先日の作文、中学生クラス。二人のクラスなのだが、宿題のニュース・レポートで、二人ともが1月にフランスで起こったシャルリ・エブド事件を取り上げていた。それで急遽、その日のテーマを変更して、二人にこの事件について考え、書いてもらった。
テレビのニュースでは、事件現場の映像、犯人の顔、デモのようすなどが繰り返し映されてきた。それらを見る限り、問題は「テロ 対 言論の自由(民主主義)」と見える。
しかし、問題はそんなに単純なものではなく、この事件から考えないといけないこと、学ばないといけないことはもっと別のところにもあると、私は感じていた。いろんな切り口があるとは思うのだが、さしあたって「移民問題」は日本がしっかりと考えていかなくてはならないことだろう。
犯人はイスラム教徒かもしれないが、<フランス人>であった。移民の二世。マジョリティのフランス人たちと移民してきたマイノリティのフランス人たち。現在、フランスでは(おそらくヨーロッパ広域で)イスラムに対する憎悪が増してきているようだ。ついでに、ユダヤに対しても。
この移民を取り巻く構図をもとに、まじめにやっている人を笑いものにするようなフランス・カルチャー、一方でイスラム過激主義思想などが絡み合い、このような事件になってしまったのだと思う。
これは、フランスだけでなく、今後のEUの在り方を大きく変えていく事件になり得る。EUが変わればもちろんその他の地域や日本も何らかの影響を受けていくことになるだろう。
1時間強の作文の時間で、こういった問題を掘り下げていくことは残念ながらできないが、少なくともこういう事件があったということを記憶に刻んでいくことは重要だと思う。そして、ちょっとでも自分でそれについて書いてみることで、願わくば今後掘り下げていく入口に立つことはできるんじゃないかと思うのだ。
2015年1月11日
まだ大学院をうろうろしていたころ、翻訳などもしていたのだが、そのときに何と訳すのか困った言葉が、chemistry。人間関係にケミストリーがどうとかこうとか… ケミストリーとはまったくもって化学に関する用語だと思っていたので、人間関係にケミストリーが起こるってどういうことなのか、非常に面食らった。
今でこそ、そのような名前の音楽グループも存在し、ケミストリーの意味やニュアンスを理解している人も多くなっているのかもしれないが、当時は研究仲間たちも「?」な状態だったのだ。
敢えて日本語にすれば、「相性」となるだろう。しかし、ケミストリーには、単に「相性」だけではない、もっと動的なニュアンスがあるように思う。まさに、人と人とが出会うとそこに何かしら「化学反応」が起こって、それまでは予想だにしなかったような何かが生じる──そのようなことを経験した方も多いのではないだろうか? そのような局面に出くわすたび、私はケミストリーという言葉を思い出すのだ。
作文教室で、面白くもありまた難しいのもまた、ケミストリー。
作文教室では、単に書くだけでなく、発話してのやり取りも大切にしている。思ったことを口にする、人が言ったことを聞いてそれに応える──。
AちゃんとBちゃんは合わんやろーと思っていても、いざ対面すると、二人ともとても楽しそうに冗談を言い合って盛り上がる。あれ?Aちゃんってこんなに明るい子やったっけ? Bちゃんって真面目やと思ってたけど、こんな風に冗談も言うんや、とただ一人教師は驚く。そういうこともあった。
また、どう考えても合うと思ってた生徒同士が、いざいっしょに勉強を始めると、どうしても打ち解けずにシラ〜っとした空気が全体を覆ったまま動かない、ということもある。どうしよう?この雰囲気・・・と思っても、その場を融かす化学薬品を教師は残念ながらもちあわせていない。
化学薬品の調合という課題も含めてケミストリー、おもしろいなぁと思う。
2014年12月27日
英語多読教室で使っているかわいい絵本たち。
小学生のクラスでは、そらで言えるようになるまで繰り返し読んでいきます。毎回、5〜7冊くらいは読むことになるのですが、新しいストーリーはそのうち1〜2冊。
子どもたちは楽しい話を繰り返し読むのも大好きです。本の束をポンと机の上に準備すると、「あ、前、何やったっけ、〇〇〇ってやつがあった!」とか、どんどん前回に読んだ本を思い出していきます。「そうそう、あったあった!」といってその本を取り出し、音声を聴いたりしながら、どんどん読んでいくのです。
そうして既読の本をすべて復習すると、新しい本・・・
その、新しい本を目の前に出したとき、子どもたちの顔がパッと輝くのです。
こっちまでテンション上がってしまいます! 「今度はどんな話かなー?」って。
それで、音声に合わせて絵本をめくっていってもらうのですが、語数の少ない簡単な話なので、解説なしで理解してくれます。オチではちゃんとクスッと笑ってくれます!
思えば、子どもたちは絵本が大好きですよね。新しい絵本を前にしたときのワクワク感。
おぼろげにしか思い出さないのですが、娘の小さかったときにも、そしてはるか昔の私自身の小さかったときにも、そのようなものがあったかな、と。
改めて、絵本というもののもつ力に新鮮な驚きを感じています。
作文教室でも、この力をうまく利用して、教材化できるかもしれませんね!
2014年12月11日
父の手術が終わり、お医者さんから手術の報告や今後の処置や見通しについて教えてもらったときのこと。長時間の手術のあとで目がまだ血走った感じの、けれども穏やかなお医者さんは、たんたんといろいろ説明してくれたのだが、「このとき、患者が苦しくて管を引っぱって抜いてしまうことがありますので…」と申し訳なさそうに私たちの方を見て、「手をお預かりすることがあります」と言ったのだった。
初めて聞く表現に、私はかなり驚いた。
手を拘束するという意味。つまり、手をベルトかなんかでおそらくベッドのパイプに固定する? そのような荒々しい行為が、こんなにも品の良い言葉で表されてしまうとは!
もちろん、患者のことを思えばこその処置ではあるのだが、言葉の響きと、その言葉が意味することとの乖離に驚いて、しばらく頭のなかをそのフレーズがリフレインしていた。
いつ、誰がそんな表現を使い始めたのか知らないが、現場で使われる言葉の、何とも言えない臨場感に身震いがする思いだった。
2014年12月9日
子どもに英語を教えていると、子どもの耳のよさにほんとうに驚かされる。カタカナ・イングリッシュに慣れてしまった私の耳には、子どもの発音は不明瞭でつい直したくなるのだが、実際ネイティブが聞いたらどちらが聞きやすいかわかったもんではないと思う。
外国語を勉強するという話になると、「まず日本語から」などという意見が聞かれることが多いのだが、私はいつもこう思う。「どっちもやりなはれ!」と。言語習得に順番があるという発想そのものがどうも理解できない。もちろん、学習には時間が必要で、時間が限りあるものなら、どちらを先にやるかを選択する必要が出てくることがあるかもしれないが・・・
耳のやわらかいうちにどんどん言語を学習するのは、それはそれでとても意味があると思うのだ。
先日、小学生の男の子と英語を勉強していて、その耳のやわらかさにやはり感嘆していたのだが・・・「じゃぁ、アルファベットを確認してみようかな」と、用意してあったアルファベット表を見せると、急に「エー、ビー、シー」とカタカナ発音になってしまった。え!? さっきまでの素晴らしい発音はどうしちゃったの? と驚いて、アルファベット表を見ると納得・・・アルファベットの横にカタカナが書いてあって、彼はそれを読んでいたのでした^^
2014年12月9日
言語は複雑で、教科書通り真面目に学習したからと言って使えるようにはなかなかならない。日常語や方言、ニュースの日本語、バラエティの会話・・・私たちはどのように母国語を習得したのだろう?と思って振り返っても、そのプロセスはどうもよくわからない。自分自身の日本語習得もそうだが、娘がどのように日本語を習得したのかも振り返るのは難しい。
台湾に行って、さんざん苦労した挙句、台湾人と間違えられるくらいの中国語を話せるようになった娘。こちらは、そのプロセスを少しは振り返ることができるものの、「ある日突然わかるようになったって感じ」という表現に、タジタジとしてしまう。
うちに2か月間ホームステイをしていたオードリーちゃんも、たしかに教科書を使って日本語を勉強したのだけど、瞬く間に日常に必要な会話ができるようになった。何かを暗記するとかそういうこともなく、机に向かってコツコツと何かするということもなく・・・
中国人の中学生の女の子も、日本に来て1年半、学校の話から政治的な話、バラエティの話など、どんどん話してくれる。
私は、というと、どれだけ一生懸命勉強しても、そして英語の文章を書いても、分厚い洋書も何冊も読んだのに、英語が「わかった」というような感じはまだ知らない。「英語ができる」と言ってしまうと、「なんだ、できないじゃないか」という場面に出くわすし、だからといって、「できない」と言ってみたら「できるじゃない」と笑われる。現地で勉強したことがないとはいえ、オードリーちゃんや中国人の女の子が日本語を勉強するよりたくさんの時間を、私はかつて英語に費やしたかもしれない。それなのに、こんなに中途半端な段階で止まっていて、そこを抜け出すことができないのだ。
言語はどんどん暗記していくのが近道かな、と最近思ったりもしたのだが、「暗記はつまらないです」と中国人の女の子に言われてしまった。そういえばオードリーちゃんも暗記なんかしてないのに、どんどん話せるようになっている。
語彙や文法を覚えるのは最低限必要だろうけど、そういったことを「運用」する練習こそが必要なのかもしれない。自分が使う場面を想定しながらの練習。しかも、楽しく!
2014年5月21日
作文教室の教材に、新聞記事を用いることがある。すると、え? というところで子どもたちが躓いていたりするのに驚く。先日は、「〇〇教授はこう述べている。……同教授はまた、こんなことも述べている」という形の文章の、「同」の意味がわからなかったようだ。「そういう名前なん?」「同って、どういう意味?」と。繰り返しを避けるための表現であることを説明すると、納得してくれて、テキスト中から同じように「同△△」と使われている箇所を探し出し、「あ、この“同”は△△ってことやな!」とか、勝手に「読解」をし始めた。
あるいは、「米国」はなんとかわかっても、「欧」はわからない。これなどは、説明すれば問題なく理解できる部分だ。
あるいは、日本企業の特徴として「ヒエラルキーが硬直的」という表現が出てきたのだが、これも意味がわからない。「ヒエラルキー」の意味、そしてそれが「硬直的」であることを説明すると、みんな納得する。とくにクラブ活動でそのようなヒエラルキーが身に染みているであろう中学生は、深く頷いていた。
説明したり、みんなでそれを噛み砕いて理解していったり・・・そんなことをしているときに、ふと思うことがあった。
これって、日本語なのに外国語みたいだ──
言葉の意味をひとつひとつ理解し、言葉の並べ方のルールを確認し、それらを文章の中でさらに捉え直していく。日本語だと、なんとなくわかってしまう部分があるから、ふだんはもしかすると確認しないまま流れていってしまっているかもしれない。けれども、外国語だと、ひとつひとつ確認して積み上げていかないと、全体の<意味>へは辿り着かない。
もしかすると、「読解」の力を鍛えるのに、英語を用いるのは有効かもしれない、と思ったのだ。
単語の意味を確認し、言葉の並べ方のルールを確認し、それらを文章の中でとらえ直していく。そしてそのプロセスによって浮かび上がってくる文章のメッセージ、意味についてみんなで議論していく。そういったことは、英語を用いることによってむしろプロセスが明確化し、思考が鍛えられるのではないか。
英語教育が低年齢化しているとはいえ、今の子どもたちの英語力が一昔前に比べて飛躍的に上昇している気配は見られない。スタート地点がどこになるかはケースバイケースである。しかし、始めてみる価値はある。
ということで、”英語読解教室”、始めたいと思います!
英語で読んで、日本語で議論しましょうよ! 不明な点があれば、また英語のテキストに戻って確認すればいいじゃないですか。日本語と英語をそうやって行き来しながら、「読解力」の底力をつけていきましょう。ついでに、英語力も飛躍的に伸ばしていきましょう。
教育について、私と同じようなことを考えている人はほかにいないのかな? といろいろ探すうち、このPISA調査にぶつかった。
PISA調査とは、簡単に言うと、各国の子どもたちの学力を測定するための国際調査のことである。
2000年から始められ、その後は3年ごとに調査が実施されている。
いくつかの指標が組み合わされて総合的に「学習到達度」が測定されるのだが、その指標の一つに「読解力」がある。次の表は、この読解力の各国順位の推移である。(朝日新聞、2013年12月4日)
表を見たらわかるように、2003年、日本は順位をかなり落とす。いわゆる「PISAショック」だ。それで日本の教育界は少し慌てたようなのだが、その3年後、日本はさらに順位を落とした。順位を落とした原因は「ゆとり教育」か!? ということで、学習指導要領の見直しが行われた結果、だんだん順位を上げてくることになった。
・・・ということらしい。
PISAが果たしてどのような能力を測定しているのか? ということについての吟味は必要だし、その上でその能力が日本の子どもたちにとってもあらまほしき能力なのか? ということを考えていくことも必要だろう。
ただ、私がちょっと驚いたのは、もしかしてPISAが測定しようとしている能力は、私が作文教室で子どもたちに身に付けてほしいと思っている能力とすごく似ているのではないか、ということである。
「生きる力」を育みたいという根本的な方向性も共有しているようだし、「根拠」にこだわる点、さまざまな媒体からテキストを持ってくる点、「評論」(批判的な思考)という日本の教育現場では馴染のないパースペクティブを導入しようとしている点など、へぇ、と思った。
さらに、このPISA調査の影響で、学校現場などにもPISAに適応できる能力を育もうとする試みがいろいろ導入されつつあることもわかった。心強いことである。
教育をとりまく国際的な状況、そして日本の動向などを踏まえながら、NAKAO作文教室の立ち位置をより明確にしていけたら、と改めて思った次第である。
参考:http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/tobira.html
教材を準備するとき、とりあえずは生徒たちの理解力などを考慮する。当然だ。
しかし、難しいのは、テーマやアプローチが違えば、驚くほど理解力を示す生徒がいる一方で、びっくりするほど理解できない生徒もいるということ。たとえば、小説風の文章がまったく書けない子が、観察文では素晴らしい記述を見せたりすることがある。そして、その逆もまた然り。
なので、このテーマについてちょっと考えてほしいな、と思えば、少し難しいかな? と逡巡しながらも、なるべくそのまま生徒たちに提出することにしている。
短い文なら、皆で読み合わせをする。読めない漢字は、わかる人が教えてくれたり、辞書を引いたり。難しそうな言葉の意味も、皆で確認していく。そうして、各々が理解できる範囲で、テーマについて意見を述べ、書く。
しかし、考えてみれば、すっかり大人になっている私であっても、ニュースを聞いて理解できないことはあるし、未だに初めて聞くような言葉や言い回しに出遭うし、難しくて読めない本もある。世の中は常に私にとって混沌としていて、その混沌の中から理解可能な秩序を紡ぎだしていく。
習ってない漢字があったっていいじゃん、内容が難しくってよく理解できなくってもいいじゃん、理解可能な範囲で何とかテーマにしがみついてみてほしいと思うのだ。
そこで、ふと思うのが、一昔前の茶の間の風景。
皆でテレビを観ながら、番組の内容についてあーだこーだと言い合う。意見を言いたければ言うし、興味がなければ聞き流すし(教室では流されると困りますが^^)、わからないことがあれば質問する──<文化資本>という概念をブルデューという学者が言っているが、そういう資本になりうる場。
教室の役割の一つに、そういうものがあるかな、と思ったりする。
最近、たてつづけに嬉しい報告をいただきました!
・国語の模試の偏差値がポンと上がった(受験生)
・国語の実力テストが、前回より20点アップした(受験生)
・クラスで一番早く作文が書けて、即オッケーが出た
・読書感想文とかスラスラと書けるようになった
嬉しいですよね。
作文や小論文の出来不出来は数値化することが難しく、教室に来ていてもなかなかどれだけ上達したかを確認するのは難しいのです。文章の型も、日記、観察文、報告文、物語風のものなどさまざまで、それぞれ得手不得手があれば尚更です。
上達度をある程度把握できるような、そんな指標を作りたいというのは、いつも考えていることですが、単純に作ることもできないし、複雑になりすぎても実用的でないし、となかなかアイデアが前に進みません。
ですから、このように、生徒さんの成績や実感のレベルで、やっててよかった! と思ってもらえるのは、ほんとうに嬉しく思います。
これからも、生徒さん一人一人が確実に力を伸ばしていかれるよう、がんばってお手伝いしていきたいと思います。