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大阪交野にある<NAKAO学習教室>

TEL.050-3396-6961

〒576-0036 大阪府交野市森北1-37-12
香里プラザZ404号(河内磐船駅すぐ)
e-mail: pypykky-sakubun@yahoo.co.jp

シンギュラリティと東ロボくん

2019年1月14日
レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い─人類が生命を超越するとき』と、新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』。

2045年に人類文明は「技術的特異点(シンギュラリティ)」に達し、私たちの生活や価値観が後戻りできない形で変化してしまうという。文明は指数関数的に進化するので、今後の変化のスピードははこれまでに比べられないほど速いものになるらしい。

たしかに、初代iPhoneが発売されたのが、2007年。今からたった12年前。スマホによって私たちの生活はずいぶん変わった。スマホなしの生活はもはや考えられない。しかし、そのスマホが現れたのは、たった10数年前に過ぎないのだ。

それを考えると、カーツワイルの提唱する「シンギュラリティ」も起こりうるのではないかと思えてくる。

一方、東ロボくんを開発して話題になった新井は、シンギュラリティは来ない、と明確に言い切っている。AIは、人間がさまざまな情報をインプットし、それを基に問に答えたり、作曲をすることもできるが、「意味」を理解しない以上、限界がある、ということのようなのだ。

しかし、「シンギュラリティは来ない」と言う新井にして、「今後10年から20年の間に、働く人々の半数が職を奪われるかもしれない」と警告しているのだ。そして、「それは人類がこれまで体験したことのない変化」であると。

つまり、マックスの変化がシンギュラリティで、ミニマムの変化が、仕事の半分がなくなる、ということ?

このへんの議論は未来のことゆえ、やや混とんとしていて掴みどころがないのだが、「シンギュラリティが来る!」と警告されるよりも、「シンギュラリティは来ないけど、すごい変化は来る!」と言われた方がなんかドキッとしてしまった。

いずれにせよ、これから10年、20年という単位で、非常に大きな変化が起き、私たちはそれに対処していかなくてはいけないということだ。

私らの年代はともかく、これから仕事を始める人や大学で何を学ぶか決める学生なんかは、来る未来の変化を見据えつつ、進路を決めていかなくてはいけないという、非常に難しい時代になっているようだ。

時代に流されていると、きっと溺れてしまう。時代の波に乗りながらも、しっかりと情報収集して、自分で考えて、自分の生きたい方角を見失わずに、生きていく力が必要になる。

新・中一生から「大学希望者学力評価テスト(仮称)」実施

2015年3月5日
知識量を問う暗記中心の試験から、論述中心の考える試験へ。
グローバル時代に対応できる力を測定できる試験へ。
英語も、「読む・聞く」偏重の試験から「書く・話す」も重視する試験へ。
受け身の学習から能動的学習へ。

試験の具体的中身はまだ決まっていないものの、新・中一生が大学入試を受けるときから新しい選抜方式が採用されることは決まったようだ。

基礎学力の担保として、「高等学校基礎学力テスト(仮称)」が導入されるらしい。これは、高校2年・3年の各段階の学力を測るもの。

どのような選抜方法になるのかについては、今後も報道をしっかりウォッチしてこのサイトで報告していきたいと思います。

不安になることはありません。選抜方式が変わっても、選抜される人数が変わるわけではないですよね。新しい制度で選抜される人は必ずいるのです。今から準備して、“考えることのできる力””英語を使える力”をいっしょに養いませんか?

シャルリ・エブド事件

2015年1月20日
先日の作文、中学生クラス。二人のクラスなのだが、宿題のニュース・レポートで、二人ともが1月にフランスで起こったシャルリ・エブド事件を取り上げていた。それで急遽、その日のテーマを変更して、二人にこの事件について考え、書いてもらった。

テレビのニュースでは、事件現場の映像、犯人の顔、デモのようすなどが繰り返し映されてきた。それらを見る限り、問題は「テロ 対 言論の自由(民主主義)」と見える。

しかし、問題はそんなに単純なものではなく、この事件から考えないといけないこと、学ばないといけないことはもっと別のところにもあると、私は感じていた。いろんな切り口があるとは思うのだが、さしあたって「移民問題」は日本がしっかりと考えていかなくてはならないことだろう。

犯人はイスラム教徒かもしれないが、<フランス人>であった。移民の二世。マジョリティのフランス人たちと移民してきたマイノリティのフランス人たち。現在、フランスでは(おそらくヨーロッパ広域で)イスラムに対する憎悪が増してきているようだ。ついでに、ユダヤに対しても。

この移民を取り巻く構図をもとに、まじめにやっている人を笑いものにするようなフランス・カルチャー、一方でイスラム過激主義思想などが絡み合い、このような事件になってしまったのだと思う。

これは、フランスだけでなく、今後のEUの在り方を大きく変えていく事件になり得る。EUが変わればもちろんその他の地域や日本も何らかの影響を受けていくことになるだろう。

1時間強の作文の時間で、こういった問題を掘り下げていくことは残念ながらできないが、少なくともこういう事件があったということを記憶に刻んでいくことは重要だと思う。そして、ちょっとでも自分でそれについて書いてみることで、願わくば今後掘り下げていく入口に立つことはできるんじゃないかと思うのだ。

ケミストリー(chemistry)

2015年1月11日
まだ大学院をうろうろしていたころ、翻訳などもしていたのだが、そのときに何と訳すのか困った言葉が、chemistry。人間関係にケミストリーがどうとかこうとか… ケミストリーとはまったくもって化学に関する用語だと思っていたので、人間関係にケミストリーが起こるってどういうことなのか、非常に面食らった。

今でこそ、そのような名前の音楽グループも存在し、ケミストリーの意味やニュアンスを理解している人も多くなっているのかもしれないが、当時は研究仲間たちも「?」な状態だったのだ。

敢えて日本語にすれば、「相性」となるだろう。しかし、ケミストリーには、単に「相性」だけではない、もっと動的なニュアンスがあるように思う。まさに、人と人とが出会うとそこに何かしら「化学反応」が起こって、それまでは予想だにしなかったような何かが生じる──そのようなことを経験した方も多いのではないだろうか? そのような局面に出くわすたび、私はケミストリーという言葉を思い出すのだ。

作文教室で、面白くもありまた難しいのもまた、ケミストリー。

作文教室では、単に書くだけでなく、発話してのやり取りも大切にしている。思ったことを口にする、人が言ったことを聞いてそれに応える──。

AちゃんとBちゃんは合わんやろーと思っていても、いざ対面すると、二人ともとても楽しそうに冗談を言い合って盛り上がる。あれ?Aちゃんってこんなに明るい子やったっけ? Bちゃんって真面目やと思ってたけど、こんな風に冗談も言うんや、とただ一人教師は驚く。そういうこともあった。

また、どう考えても合うと思ってた生徒同士が、いざいっしょに勉強を始めると、どうしても打ち解けずにシラ〜っとした空気が全体を覆ったまま動かない、ということもある。どうしよう?この雰囲気・・・と思っても、その場を融かす化学薬品を教師は残念ながらもちあわせていない。

化学薬品の調合という課題も含めてケミストリー、おもしろいなぁと思う。

絵本の力

2014年12月27日
英語多読教室で使っているかわいい絵本たち。
小学生のクラスでは、そらで言えるようになるまで繰り返し読んでいきます。毎回、5〜7冊くらいは読むことになるのですが、新しいストーリーはそのうち1〜2冊。
子どもたちは楽しい話を繰り返し読むのも大好きです。本の束をポンと机の上に準備すると、「あ、前、何やったっけ、〇〇〇ってやつがあった!」とか、どんどん前回に読んだ本を思い出していきます。「そうそう、あったあった!」といってその本を取り出し、音声を聴いたりしながら、どんどん読んでいくのです。
そうして既読の本をすべて復習すると、新しい本・・・
その、新しい本を目の前に出したとき、子どもたちの顔がパッと輝くのです。
こっちまでテンション上がってしまいます! 「今度はどんな話かなー?」って。

それで、音声に合わせて絵本をめくっていってもらうのですが、語数の少ない簡単な話なので、解説なしで理解してくれます。オチではちゃんとクスッと笑ってくれます! 

思えば、子どもたちは絵本が大好きですよね。新しい絵本を前にしたときのワクワク感。
おぼろげにしか思い出さないのですが、娘の小さかったときにも、そしてはるか昔の私自身の小さかったときにも、そのようなものがあったかな、と。

改めて、絵本というもののもつ力に新鮮な驚きを感じています。
作文教室でも、この力をうまく利用して、教材化できるかもしれませんね!

手をお預かりすることがあります」

2014年12月11日
父の手術が終わり、お医者さんから手術の報告や今後の処置や見通しについて教えてもらったときのこと。長時間の手術のあとで目がまだ血走った感じの、けれども穏やかなお医者さんは、たんたんといろいろ説明してくれたのだが、「このとき、患者が苦しくて管を引っぱって抜いてしまうことがありますので…」と申し訳なさそうに私たちの方を見て、「手をお預かりすることがあります」と言ったのだった。

初めて聞く表現に、私はかなり驚いた。

手を拘束するという意味。つまり、手をベルトかなんかでおそらくベッドのパイプに固定する? そのような荒々しい行為が、こんなにも品の良い言葉で表されてしまうとは!

もちろん、患者のことを思えばこその処置ではあるのだが、言葉の響きと、その言葉が意味することとの乖離に驚いて、しばらく頭のなかをそのフレーズがリフレインしていた。

いつ、誰がそんな表現を使い始めたのか知らないが、現場で使われる言葉の、何とも言えない臨場感に身震いがする思いだった。

子どもの耳

2014年12月9日
子どもに英語を教えていると、子どもの耳のよさにほんとうに驚かされる。カタカナ・イングリッシュに慣れてしまった私の耳には、子どもの発音は不明瞭でつい直したくなるのだが、実際ネイティブが聞いたらどちらが聞きやすいかわかったもんではないと思う。

外国語を勉強するという話になると、「まず日本語から」などという意見が聞かれることが多いのだが、私はいつもこう思う。「どっちもやりなはれ!」と。言語習得に順番があるという発想そのものがどうも理解できない。もちろん、学習には時間が必要で、時間が限りあるものなら、どちらを先にやるかを選択する必要が出てくることがあるかもしれないが・・・

耳のやわらかいうちにどんどん言語を学習するのは、それはそれでとても意味があると思うのだ。

先日、小学生の男の子と英語を勉強していて、その耳のやわらかさにやはり感嘆していたのだが・・・「じゃぁ、アルファベットを確認してみようかな」と、用意してあったアルファベット表を見せると、急に「エー、ビー、シー」とカタカナ発音になってしまった。え!? さっきまでの素晴らしい発音はどうしちゃったの? と驚いて、アルファベット表を見ると納得・・・アルファベットの横にカタカナが書いてあって、彼はそれを読んでいたのでした^^

言語の習得過程

2014年12月9日
言語は複雑で、教科書通り真面目に学習したからと言って使えるようにはなかなかならない。日常語や方言、ニュースの日本語、バラエティの会話・・・私たちはどのように母国語を習得したのだろう?と思って振り返っても、そのプロセスはどうもよくわからない。自分自身の日本語習得もそうだが、娘がどのように日本語を習得したのかも振り返るのは難しい。

台湾に行って、さんざん苦労した挙句、台湾人と間違えられるくらいの中国語を話せるようになった娘。こちらは、そのプロセスを少しは振り返ることができるものの、「ある日突然わかるようになったって感じ」という表現に、タジタジとしてしまう。

うちに2か月間ホームステイをしていたオードリーちゃんも、たしかに教科書を使って日本語を勉強したのだけど、瞬く間に日常に必要な会話ができるようになった。何かを暗記するとかそういうこともなく、机に向かってコツコツと何かするということもなく・・・

中国人の中学生の女の子も、日本に来て1年半、学校の話から政治的な話、バラエティの話など、どんどん話してくれる。

私は、というと、どれだけ一生懸命勉強しても、そして英語の文章を書いても、分厚い洋書も何冊も読んだのに、英語が「わかった」というような感じはまだ知らない。「英語ができる」と言ってしまうと、「なんだ、できないじゃないか」という場面に出くわすし、だからといって、「できない」と言ってみたら「できるじゃない」と笑われる。現地で勉強したことがないとはいえ、オードリーちゃんや中国人の女の子が日本語を勉強するよりたくさんの時間を、私はかつて英語に費やしたかもしれない。それなのに、こんなに中途半端な段階で止まっていて、そこを抜け出すことができないのだ。

言語はどんどん暗記していくのが近道かな、と最近思ったりもしたのだが、「暗記はつまらないです」と中国人の女の子に言われてしまった。そういえばオードリーちゃんも暗記なんかしてないのに、どんどん話せるようになっている。

語彙や文法を覚えるのは最低限必要だろうけど、そういったことを「運用」する練習こそが必要なのかもしれない。自分が使う場面を想定しながらの練習。しかも、楽しく!

「読解」について─英語読解教室

2014年5月21日
作文教室の教材に、新聞記事を用いることがある。すると、え? というところで子どもたちが躓いていたりするのに驚く。先日は、「〇〇教授はこう述べている。……同教授はまた、こんなことも述べている」という形の文章の、「同」の意味がわからなかったようだ。「そういう名前なん?」「同って、どういう意味?」と。繰り返しを避けるための表現であることを説明すると、納得してくれて、テキスト中から同じように「同△△」と使われている箇所を探し出し、「あ、この“同”は△△ってことやな!」とか、勝手に「読解」をし始めた。

あるいは、「米国」はなんとかわかっても、「欧」はわからない。これなどは、説明すれば問題なく理解できる部分だ。

あるいは、日本企業の特徴として「ヒエラルキーが硬直的」という表現が出てきたのだが、これも意味がわからない。「ヒエラルキー」の意味、そしてそれが「硬直的」であることを説明すると、みんな納得する。とくにクラブ活動でそのようなヒエラルキーが身に染みているであろう中学生は、深く頷いていた。

説明したり、みんなでそれを噛み砕いて理解していったり・・・そんなことをしているときに、ふと思うことがあった。

これって、日本語なのに外国語みたいだ──

言葉の意味をひとつひとつ理解し、言葉の並べ方のルールを確認し、それらを文章の中でさらに捉え直していく。日本語だと、なんとなくわかってしまう部分があるから、ふだんはもしかすると確認しないまま流れていってしまっているかもしれない。けれども、外国語だと、ひとつひとつ確認して積み上げていかないと、全体の<意味>へは辿り着かない。

もしかすると、「読解」の力を鍛えるのに、英語を用いるのは有効かもしれない、と思ったのだ。

単語の意味を確認し、言葉の並べ方のルールを確認し、それらを文章の中でとらえ直していく。そしてそのプロセスによって浮かび上がってくる文章のメッセージ、意味についてみんなで議論していく。そういったことは、英語を用いることによってむしろプロセスが明確化し、思考が鍛えられるのではないか。

英語教育が低年齢化しているとはいえ、今の子どもたちの英語力が一昔前に比べて飛躍的に上昇している気配は見られない。スタート地点がどこになるかはケースバイケースである。しかし、始めてみる価値はある。

ということで、”英語読解教室”、始めたいと思います!

英語で読んで、日本語で議論しましょうよ! 不明な点があれば、また英語のテキストに戻って確認すればいいじゃないですか。日本語と英語をそうやって行き来しながら、「読解力」の底力をつけていきましょう。ついでに、英語力も飛躍的に伸ばしていきましょう。

PISA調査について

2013年12月22日

教育について、私と同じようなことを考えている人はほかにいないのかな? といろいろ探すうち、このPISA調査にぶつかった。

PISA調査とは、簡単に言うと、各国の子どもたちの学力を測定するための国際調査のことである。
2000年から始められ、その後は3年ごとに調査が実施されている。
いくつかの指標が組み合わされて総合的に「学習到達度」が測定されるのだが、その指標の一つに「読解力」がある。次の表は、この読解力の各国順位の推移である。(朝日新聞、2013年12月4日)



表を見たらわかるように、2003年、日本は順位をかなり落とす。いわゆる「PISAショック」だ。それで日本の教育界は少し慌てたようなのだが、その3年後、日本はさらに順位を落とした。順位を落とした原因は「ゆとり教育」か!? ということで、学習指導要領の見直しが行われた結果、だんだん順位を上げてくることになった。

・・・ということらしい。

PISAが果たしてどのような能力を測定しているのか? ということについての吟味は必要だし、その上でその能力が日本の子どもたちにとってもあらまほしき能力なのか? ということを考えていくことも必要だろう。

ただ、私がちょっと驚いたのは、もしかしてPISAが測定しようとしている能力は、私が作文教室で子どもたちに身に付けてほしいと思っている能力とすごく似ているのではないか、ということである。

「生きる力」を育みたいという根本的な方向性も共有しているようだし、「根拠」にこだわる点、さまざまな媒体からテキストを持ってくる点、「評論」(批判的な思考)という日本の教育現場では馴染のないパースペクティブを導入しようとしている点など、へぇ、と思った。

さらに、このPISA調査の影響で、学校現場などにもPISAに適応できる能力を育もうとする試みがいろいろ導入されつつあることもわかった。心強いことである。

教育をとりまく国際的な状況、そして日本の動向などを踏まえながら、NAKAO作文教室の立ち位置をより明確にしていけたら、と改めて思った次第である。

参考:http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/tobira.html

<文化資本>として

2013年12月1日

教材を準備するとき、とりあえずは生徒たちの理解力などを考慮する。当然だ。

しかし、難しいのは、テーマやアプローチが違えば、驚くほど理解力を示す生徒がいる一方で、びっくりするほど理解できない生徒もいるということ。たとえば、小説風の文章がまったく書けない子が、観察文では素晴らしい記述を見せたりすることがある。そして、その逆もまた然り。

なので、このテーマについてちょっと考えてほしいな、と思えば、少し難しいかな? と逡巡しながらも、なるべくそのまま生徒たちに提出することにしている。

短い文なら、皆で読み合わせをする。読めない漢字は、わかる人が教えてくれたり、辞書を引いたり。難しそうな言葉の意味も、皆で確認していく。そうして、各々が理解できる範囲で、テーマについて意見を述べ、書く。

しかし、考えてみれば、すっかり大人になっている私であっても、ニュースを聞いて理解できないことはあるし、未だに初めて聞くような言葉や言い回しに出遭うし、難しくて読めない本もある。世の中は常に私にとって混沌としていて、その混沌の中から理解可能な秩序を紡ぎだしていく。

習ってない漢字があったっていいじゃん、内容が難しくってよく理解できなくってもいいじゃん、理解可能な範囲で何とかテーマにしがみついてみてほしいと思うのだ。

そこで、ふと思うのが、一昔前の茶の間の風景。

皆でテレビを観ながら、番組の内容についてあーだこーだと言い合う。意見を言いたければ言うし、興味がなければ聞き流すし(教室では流されると困りますが^^)、わからないことがあれば質問する──<文化資本>という概念をブルデューという学者が言っているが、そういう資本になりうる場。

教室の役割の一つに、そういうものがあるかな、と思ったりする。

「成績が上がった!」

2013年11月18日

最近、たてつづけに嬉しい報告をいただきました!

・国語の模試の偏差値がポンと上がった(受験生)
・国語の実力テストが、前回より20点アップした(受験生)
・クラスで一番早く作文が書けて、即オッケーが出た
・読書感想文とかスラスラと書けるようになった

嬉しいですよね。

作文や小論文の出来不出来は数値化することが難しく、教室に来ていてもなかなかどれだけ上達したかを確認するのは難しいのです。文章の型も、日記、観察文、報告文、物語風のものなどさまざまで、それぞれ得手不得手があれば尚更です。

上達度をある程度把握できるような、そんな指標を作りたいというのは、いつも考えていることですが、単純に作ることもできないし、複雑になりすぎても実用的でないし、となかなかアイデアが前に進みません。

ですから、このように、生徒さんの成績や実感のレベルで、やっててよかった! と思ってもらえるのは、ほんとうに嬉しく思います。
これからも、生徒さん一人一人が確実に力を伸ばしていかれるよう、がんばってお手伝いしていきたいと思います。

想像力─主題と引用

2013年10月21日

想像力とは、点と点を、何らかの意味で結びつける試みであるということができる。

作文であれ小論文であれ、与えられた主題について論じるのに、何かを引用したり、根拠を示したりするということがしばしば要求される。平たく言えば、ネタをうまく使って書くとよい、ということなのだが、この「ネタ」についてすんなり理解できる人とできない人がいる。

主題と関係した事柄を、自分の知識の引き出しの中から探してくる──この作業がすんなりできる人とできない人がいるのだ。あるいは、主題によってはできたりできなかったり、ということなのかもしれないが。

主題という「点」と、引用する素材という「点」を結び付けていく作業、これはどうやって指導したらいいのだろうか? 

表記の指導や読解力の指導はある程度方法論が見えるのだが、想像力を指導するというのは、思いのほか難しいと実感する。

想像力─チェルノブイリと福島

2013年09月23日

ベラルーシの13歳の男の子が書いた作文の日本語訳を教材にしてみた。「国際ユース作文コンテスト」で2012年度に最優秀賞に選ばれたものである。同年代の子どもが書いた作文を読んで、何かしら刺激を受けてほしいと思ったのだ。

その男の子はある日学校で1枚の写真を目にする。女の子が明るく笑っている写真。その女の子はチェルノブイリの放射能のせいで、余命いくばくもないと。

彼はベラルーシのミンスクの人。チェルノブイリは、国境近くにあるとはいえ隣国ウクライナにある。距離にしてだいたい320キロ。

26年くらい前に起こった、今や隣国となった(昔はどちらもソ連邦)場所で起こった惨事が今なおその傷跡を新たに生産し続けていて、このベラルーシ・ミンスクの男の子の心に何かしら訴えかけているのだ。

この作文を見て、もしかすると作文教室の子どもたちから「福島」という言葉が出てくるかな? と少し思ったのだ。福島から320キロというと、北は北海道から南は四国をぐるっと取り込み山口県までの範囲。しかも、福島は日本にある。

あまり報道されていないが、既に甲状腺がんにかかった子どもたちもいると聞く。

けれども、作文教室の子どもたちにとって、チェルノブイリも遠ければ、福島も遠かった。

無理強いするつもりもないのだが、これでいいのだろうか? と逡巡する。日本のメディアの問題だろうか? それとも、想像力の問題だろうか? 福島にしろチェルノブイリにしろ、自分に引き付けて考えるためには想像力が必要なんじゃないか? その想像力が、子どもたちだけでなく、メディアも含めた私たちの文化の中で、決定的に欠けているんじゃないだろうか? そんな気持ちがふつふつとしてくる。

<型>と<創造>の問題
kat

2013年08月31日

自分自身が文章を書くときに、この問題で悩むことは少なくなったが、作文指導をしていて、ときどきここでやはり躓く。

<型>はルールやパターンなどと言い換えることもできるだろう。
文章を書くときに、そもそも何を書くのか、という内容の部分がないと、何も始まらない。伝えたいものの核心、ということもできるかもしれない。(ほんとうにそんなものがあるのか?と疑うこともできるが、ここでは措いておく。)

文章のすべては、その「核心」を伝えるということにあるだろう。たとえそれがメモ的なものであっても、少なくとも未来の自分に伝え得るものでないといけない。その「核心」を現在の自分以外の誰かに伝えようとするとき、それはもしかすると、音楽で表現するのがふさわしいかもしれない。それとも絵画? ダンス?

話を文章に限っても、詩や作文、エッセーや論文などと、さまざまな方法がある。それらもすべて<型>ということができる。

文章を書く上でいちばん外してはいけない<型>は何と言っても、文法である。さらに、言葉と意味の対応である。「ここの文、つながりがなんかおかしくないか?」「これ、どういう意味や?」などと、作文教室でもキッチリと確認する部分である。

しかし、文法は遊ぶ余地があまりないものの、言葉と意味の対応については、多少遊ぶ余地があり、その対応をズラしていくところに面白み、ユーモアが生まれることがある。

「躓き」はこういうときに起こる。
この子は、言葉を遊ぼうとしているのだろうか? 辞書的な意味に話を戻せば簡単だが、もし遊ぼうとしているのなら、意味のズレを明確に表現すれば少し面白くなるんじゃないか?
とか思ってしまうわけだ。

この「遊び」というのは<創造>の芽でもある。<創造>そのものであると言えるかもしれない。

まぁ、たいていは残念ながら、生徒に確認すると、辞書的な意味をふまえた上で「遊ん」でいるのではなく、意味を勘違いしていただけということがほとんどだけど。

また、文章を書くときの<型>として教科書的に言われていることに、「です・ます調」(敬体)か「だ・である調」(常体)のどちらかに統一する、というものがある。そのとおりなのだが、これも、「です・ます調」の文体に「だ・である調」を混ぜることによって、文章に奥行きを与えたりメリハリを利かせたりという技があるのだ。

生徒の作文でも、ときどき二つが混ざることがあり、どう指導すべきか「躓く」。

そもそも、どうして二つが混ざるということが起こるのか?
いちばん簡単な説明は、「です・ます調」は誰かに説明したりするときで、「だ・である調」は自分の中で何か考えているとき、というものだろう。だから、最初は「説明」しようとして「です・ます調」で始めた子が、書いているうちに「だ・である調」にそっくり移行してしまうということもたまにある。「考える」ことを始めると、無意識のうちに「だ・である調」になってしまうのだ。

そのような場合は、無理に直すようなことはせず(受験生は残念ながら直しますが)、どうして途中で文体が変わってしまったのかを考えてもらうことにしている。そして、「書く」という営みを通して「考え」始めたことを評価する。

<型>と<創造>というテーマにはいまいち肉薄できなかったが、<型>をきっちりしておかないと<創造>も育たないし、けれど<型>をズラしたり破ったりしていくことに<創造>の醍醐味があるし。そのバランスを追求しながら、生徒たちといつもスリリングな教室をやっていけたら、と思う。

「権狐」の読解実践(岩下修)について

2013年08月13日

教科書でもおなじみの「ごんぎつね」。私が子どものころにも授業でやったように思うが、私自身が学習した記憶はあまりない。記憶にあるのは、一つ下の弟が、感動的に朗読していたことだ。

今読み返しても、というか、読み返す気すらしないほど、私はこの物語に興味がない。
こんなに有名なのに、どうして私はこんなに白けてるのかな? という疑問が、なんとなくずっとあった。

最近、朝日新聞でも、岩下修先生(立命館小学校)の「権狐」読解実践が紹介されていた。その実践は、『国語科「言語活動の充実」事例』(明治図書、2010年)に詳しい。

教科書に載っている「ごんぎつね」は、児童雑誌『赤い鳥』(1918年創刊)に掲載されたものだ。岩下は、このいわば、赤い鳥版「ごんぎつね」と、新美南吉自筆の「権狐」とを読み比べながら、「批評型学習活動」を展開している。そして、新美南吉版の方が「整合性」があることに、授業の中で生徒自身が気づいていくのだ。

私も「批評型」の授業に興味があっていろいろ考えているのだが、素材やアプローチ方法などなかなか難しいものがある。せっかくなのでこの「権狐」を使わせてもらおうと、今考えている。授業実践の紹介もあって生徒たちの反応や感想、意見などが紹介されているので、教室の子どもたちにそういったものも併せて読んでもらえば刺激にもなるだろう。

しかし、だ。

どうも気が進まない。
自己分析するに、この美しくも悲しい物語の背後に、何か胡散臭いものを感じ取ってしまうからなのだと思う。それが何かを探求するほどもこの物語に興味がもてないので、それ以上は考えないが、その胡散臭さが『赤い鳥』に対してのものなのか、新美南吉自身に対するものなのか、少し気になってきた。

胡散臭いもの──。
それは、「どうして権狐は死ななくてはならなかったのか?」ということに関連しているような気がする。兵十の母親も死んだ。兵十は生き残った。これが何を意味するのか?

このように「死」に着目するアイデアは、昔読んだ田嶋陽子の『フィルムの中の女ヒロインはなぜ殺されるのか』(新水社、1991年)から得たものである。

さて、これ以上ひとりで興味のない素材──けど、教材として非常に魅力的なもの──について考えるのは気が重い。機会があれば、やはり教室の子どもたちにもいっしょに考えてもらうことにしようかしらん?

2013年03月10日

自己肯定感を育てることは、NAKAO作文小論文教室の理念の核心にあることです。自己肯定感があればこそ、冷静に周囲や自分自身を観察・理解し、自分が次に行うべき行動を計画していくことができるのだと思います。つまり、自己肯定感は、生きる力に直結したものだと思うのです。

けど、それはどのようにして育てていけるのでしょうか?

基本的には、しっかりと言葉を紡いでいく営みの中に、その契機があるのだと思います。書くべきことをしっかりと観察し(読解)、観察したことがどういう意味をもっているのかをしっかりと考え(思考)、自分が考えたことをどのように書けば他者へ伝わるものになるのか(表現)。そのプロセスをていねいに繰り返していくことで、世界と自分との距離や関係の地図のようなものができてくるのだと思います。

そのうえで、、教室で具体的に取り組んでいきたいのが、「自分のイメージづくり」です。私を含め、自己紹介の苦手な人は多いと思いますが、自分とは何か、自分はどんな人なのかについて、機会のあるごとに考えていくことで、少しでも自己紹介が楽しくできるようになればいいなと考えています。

2013年03月09日

作文には「引用」という技がある。

伝記上の人物、四字熟語やことわざ、時事問題などをうまく「引用」しながら、自分の議論を組み立てていくということである。

このように、一般に人々に知られている共通知識をうまく引用して書かれた文は、虎の威を借る狐ではないが(あ、ここも「引用」ですね!)、ある種のイメージを読者に喚起しやすく、読みやすいものになることが多い。この共通知識は、「教養」と言い換えることもできるだろう。

NAKAO
作文教室にくる生徒さんには、ぜひこのような教養も幅広く身につけてもらい、「引用」という技を使いこなしてほしいと思っている。

いかんせん、このような知識は一朝一夕に身につくものでもなく、少しずつ時間をかけて取り組んでいかなくてはならない。ひと月に数回の作文教室で取り組むのはなかなか難しいと思うのだが、せめて、「引用」って使えるじゃん!という感覚をもってもらえれば、と思う。そして、あとは自分で「引用」のネタにアンテナを張り、見つけてきてほしいなぁと思う。

お母さんお父さんも、もしお子さんが作文で「引用」を使っていたら、「ここいいね!」「ここうまく使ったね!」「よくこんなこと知ってたねぇ」と誉めてあげてくださいね!

このような言葉がけが、子どもたちが自分自身で「引用」のネタを探してくる力を育てることにつながっていくのだと思います。

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